
鵜鷺・須川両地区住民交流会
令和6年10月21日(月)、鵜鷺コミュニティセンター体育館を会場に住民交流会が開かれ、両地区合わせて36名の方が地域自慢や自分の暮らしなどを話題に話し合われました。
須川地区(津和野町相撲ヶ原)からは、すがわ地域まちづくり委員会の会長や事務局長、須川公民館長、地域在住者の計15名がいらっしゃいました。
今回、初開催に至るまでには、コミュニティドクターとして須川地区に巡回診療に行かれる津和野共存病院副院長の飯島献一さん(鷺浦出身)のご尽力がありました。事前に何度もコミセンに来られて打合せたり、津和野と鵜鷺とをつなぐZOOM会議のホストをなさったりしました。
交流会では、飯島さんのお話の後に、パワーポイント資料を使って地域紹介をしました。
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須川地区(津和野町相撲ヶ原)と公民館の紹介 (公民館長と事務局長)
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鵜鷺地区の紹介 (鵜鷺げんきな会代表者)
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「鵜鷺コミュニティセンター建築安全祈願祭」
7月17日(水)鵜鷺コミュニティセンター新築移転工事の安全を祈念する安全祈願祭が建設現場で行われました。地元の皆さんや建設工事関係者などおよそ30名が安全祈願の神事にご出席なさいました。
神事は、地元の伊奈西波岐神社(いなせはぎじんじゃ)の長谷川宮司代理によって執り行われました。出雲市の伊藤功副市長と児玉俊雄副議長がくわ入れ、参列者が玉串を祭壇に捧げて工事の安全を祈りました。
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翌日より鵜鷺コミュニティセンター建設予定地では、トガノ建設によって工事が進められています。
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鵜鷺地区住民を始め多くの方が完成を大いに待ち望んでいらっしゃいます。私も安全で安心な地域の拠点が無事に完成することを願ってやみません。
事業の全体スケジュール(予定)は次の通りです。
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敷地内水路改良工事 (令和6年6月〜8月)
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コミュニティセンター建築工事(令和6年7月〜令和7年3月)
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外構工事(舗装含む) (令和6年12月〜令和7年3月)
C 供用開始 (令和7年4月)
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半世紀ぶりに日の目 われらが青春 タイムカプセル発見
令和4年11月26日、旧鵜鷺中学校第24期生卒業生(1971年3月卒)が埋めたタイムカプセルが地中から取り出されました。半世紀、実に51年ぶりに日の目を見たことになります。正に快挙です。
昨年11月から以下谷川の砂防ダム建設に伴い、現在のコミュニティセンター敷地内で工事が行われています。パワーショベルを使って作業をしておられた方が、珍しいものが出てきましたと、コミセンに持ち込まれました。タイムカプセルは青いバケツに入っており、1971年3月18日とか20日とか書いてありました。写真や作文などが入っていて、どうしたものかと考えた挙げ句、卒業生名簿から連絡がとれる方を調べて幸運にもお知らせすることが叶いました。
29日(火)には、第24期生世話人代表の塩田さんと梶谷(旧姓舩木)さん、栂(とが)さん3名の方に中身の確認をしていただきました。皆さんとても感激して、ぜひこの機会に同窓会を開いてみんな(同期は15名)で改めてタイムカプセルを開けたいとおっしゃいました。令和5年3月20日(月)に同窓会が開かれました。卒業生9名の方が来館され、タイムカプセルを開封して中の文書や写真などを確認なさいました。
「カプセルに入れた中身を見て、当時の楽しかった様子を思い出すことができた。
感激した。」
「部活動でバレーボールをしていたことなど、自分なりに頑張っていた中学時代を
思い出した。当時の自分は純粋で幼かったと感じたが、楽しかった思い出がよみ
がえった。」
「タイムカプセルが昔の仲間を呼び寄せてくれた。」
「ふるさとのことを忘れるなよというメッセージだったのかも知れない。」
「今は全員がこの地を離れているが、ふるさと鵜鷺地区の火は消えないでほしい」等々話していらっしゃいました。
なお、同窓会の様子は、令和3年3月21日付けの「山陰中央新報」「島根日日新聞」「読売新聞」に掲載され、icv(出雲ケーブルビジョン)でもニュースとして取り上げられました。
令和5年1月2日(月)、鵜峠地区で正月の伝統行事「シャギリ」が行われました。新型コロナウイルス感染予防のため昨年一昨年は規模を縮小して行われていましたが、3年ぶりに複数の場所で賑やかに行われました。
午後2時から3時まで神楽の衣装を身にまとった鬼が奏者や謡い方とともに地区内を練り歩き、地域内外から大勢の人が見に来られました。最初に鵜峠漁港に程近い大宮神社前で始まりました。神社の真下にある宮前集会所前で笛や太鼓、どうの演奏に合わせてゆっくりと力強い舞が披露されました。その後、法被姿の住民が鵜峠舟歌を高らかに歌いました。今回は、宮野屋の前、灘野屋前、最後に仏照寺の計4ヶ所でシャギリ舞が行われました。
このシャギリは、1955年頃に、明治期以降秋の例祭で奉納していた「鵜峠神楽」*)の演目の一部を正月用にアレンジして舞い始めたのが起源です。
新年最初に禍を祓い、その年の豊漁や豊作、家内の安全や無病息災、鵜峠地区の繁栄を祈って行われる伝統行事です。見学された人は、
「鵜峠に賑わいが戻って良かった。」
「里帰りされた人にも会えて懐かしく話しが出来て最高の正月でした。」
*)杵築地区の大土地(おおどち)神楽を取り入れてできた神楽
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令和3年1月2日(土)に、鵜峠地区の大宮神社(祭神は級長津彦命:しながつひこのみこと)においてシャギリ舞が行われました。例年は当神社前で始めてその後に町内に門付けして歩かれるのですが、新型コロナ感染予防のために規模を縮小して行われました。拝殿の中での舞とお囃子、そして五穀豊穣を願う「鵜峠舟唄」を最後に奉納して今回は終了となりました。
地域の高齢化・過疎化が進んでいるとは言うものの、小学生が祭事に新規に参加する姿(写真:真ん中)や寒中にもかかわらず地域の皆さんが法被姿で元気に唄われる姿を見ることが出来て、鵜峠地区の団結力を改めて実感させられました。島根半島四十二浦巡りの札所となっている大宮神社では、昨年老朽化した宮を囲む石柵が金属のものに建て替えられました。 また、年末には案内掲示板(写真:左下)が新設されました。当地へ来られる機会がございましたら是非見ていただきたいと思います。
隣の鷺浦地区でも別のタイプのシャギリ舞が200年以上も前から継承されていますが、いずれのシャギリ舞もいつまでも大切に保存継承していただきたい伝統文化です。
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令和2年8月15日(土)終戦記念日
先の大戦で戦死された鵜鷺地区の方を慰霊する法要が、旧鵜鷺小学校体育館を会場に行われました。
戦後75年目の法要は、乗光寺(大社町杵築東)のご住職にお勤めいただきました。読経後に焼香し、尊い命を家族や地域、国のために捧げた戦没者の皆様の冥福を参加者全員で祈りました。戦没者の遺族や鵜峠及び鷺浦両区長をはじめ地区役員、コミセン職員合わせて12名の参加がありました。
慰霊祭は、「鵜鷺地区戦没者顕彰会」の主催で以前は行われていましたが、平成28年度から「鵜鷺地区社会福祉協議会」での「戦没者慰霊」事業として行われ現在に至っています。その目的は次の通りです。
本事業は、第二次世界大戦や太平洋戦争、日中戦争等において家族や地域・祖国を守る
ために尊い命を犠牲にされた方々に対して鵜鷺地区として顕彰するものである。
先祖の功績や労苦に対して敬意を表すると同時に、鵜鷺地区民が明るく住みよいまちづくり
を推進していく事を目的とする。
新型コロナウイルスの影響で、「今年の慰霊祭は中止。」「人数を制限し、戦没者の遺族のみの参加。」といった意見もありましたが、8月にお亡くなりになった藤井健蔵様(鵜鷺地区社会福祉協議会会長)のご尽力もあって従前通りに実施する運びとなりました。
感染予防として、@非接触式体温計による検温の実施
A参加者名簿の作成 Bマスクと手洗いの徹底を行いました。
また、座席も間隔を広く取り、慰霊祭後の茶話会も取り止めて行っています。
追)一句献上
戦没者 慰霊の読経 蝉も和す
戦地にて 眠れる御霊に 南無阿弥陀
慰霊祭 支えし同士 夏の午後 天に昇りぬ 父に会えしか
福朗
八月や 鬼籍に入りぬ 同胞(とも)のあり 匿名
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令和2年7月2日(木)
1945年7月に出雲市大社町の山中に「一式陸上攻撃機」という海軍機が墜落し、命を奪われた14名の搭乗員を慰霊する法要が営まれた。
朝10時より出雲大社近くの大社町杵築南の神光寺において本堂と敷地内の慰霊碑(平成3年5月19日に遺族並びに有志建立)の前で行われた。
本法要は、神光寺の行事として『大社史話会』の馬庭孝司顧問のお世話により、遺族や地元有志の参加で、同機が墜落した7月2日に毎年行われていると聞く。法要の案内をいただき、自衛隊OBの方や墜落当時大社の小中学校に通っていらっしゃった方々ほか地元有志の皆様と一緒に読経もさせていただいた。
法要後に本堂より奥の間に供えてある位牌を見せていただいた。そこで同機搭乗の14名の乗組員は実に二十歳前後の若い方が多かったのだと気づかされた。
目を瞑り、当時の状況を思い浮かべてみた。沖縄戦に敗れ、日本海軍の最後の戦い「剣作戦」に備え、宮城県の松島基地に復帰すべく、三機に別れて搭乗した仲間たち。鹿児島の出水基地を離陸。敵艦載機の来襲の多い太平洋側ではなく、夜間の日本海側を飛行。渡辺大尉の機は、通常7名定員の倍の14名が搭乗。機内は狭い。終戦も近く同機の状態も良くない。その上に、梅雨の最中で雨が降って蒸し風呂様のまま大社町の北山に近づく。朝8時過ぎ、視界は濃霧に遮られて全く見えない。突然『どーん!』 「ああっ!」恐怖の一言では済まされないぐらいのはげしい恐ろしさであっただろう。
墜落した機体の一部と関係資料は平成17年から鵜鷺コミュニティセンターに展示されている。昨年11月18日に、コミセンに墜落機搭乗員の戦友の奥瀧様他2名の来館者があった。奥瀧様は当時20歳、御歳94歳。昭和20年7月に同型の一式陸攻に搭乗されて松島基地に向かわれた。現在も元気に邑智郡の邑南町にお住まいである。来館時に思いを語られた。「私は特攻の生き残りです。たまたま先を行った機が山にぶつかって墜落したけれど、ひょっとして自分がぶつかって死んでいたかもしれません。命をいただいてこれまで一生懸命生きてきました。有難いです。」「先ほど死んだ仲間に会いに、墜落現場の近くまで登ってきました。」と言われた。
その奥瀧様もご高齢のため今回の法要は欠席された。願わくば来年以降の法要で、北海道他在住の遺族の方達と交流を深められることを願っている。
蛇足ながら、私の祖父も戦没者である。昭和12年に北支那の平地で戦死したと聞く。(現在の中華人民共和国山西省付近)
この法要には、生前に浜田21連隊(現在の浜田高等学校に在った部隊)に属した「祖父の記念アルバムと若き祖父の写真」、戦死の時期には未だ祖母のお腹の中にいた叔母が天国の父に宛てて書いた手紙を携えてお参りすることができた。私の中でも14名の皆様とは別にもう一つ、冥福を祈ることができた。
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「鵜鷺の表玄関 八千代川をきれいに 」
令和2年4月28日(火)鷺浦地区にある八千代川土手と川縁の草刈り清掃作業を行いました。
この川の近くにお住いのAさんとFさんにご協力いただき、県道沿いを旧駐在所手前から八千代橋近くの堰堤まで草刈機で刈り、同様に川縁も刈りました。朝の9時過ぎから始め、12時まで行いました。また、刈り取った草は一日乾燥させて、30日にAさんの畑に運びました。自然農法での野菜作りの肥料としてリサイクルされるそうです。
作業の途中に、川岸に空き缶やペットボトルが合わせて3個、プラスチック性の板が一枚落ちていました。これも処分しましたが、「きれいなところには人間はごみを捨てない。目立たない所や汚れたところに捨てる傾向はある。」の法則のように、きれいな八千代川には人為的なゴミはほとんど捨てられていませんでした。
これから大型連休に入ります。家族連れで川遊びに来られる方もあるかもしれません。鵜鷺の表玄関、顔である八千代川を大切にしてほしいと願い、作業を終えました。
追)
八千代川には、きれいな水に住むカジカガエルやテナガエビ、ホタルの餌となるカワニナなどの一枚貝、藻エビやサワガニ、ハゼ類等々多用な水生生物が住んでいます。これらの生きものの住み家を荒らさないようにしていきたいものです。
6月初めには、(新型コロナウイルス対策をとりながら)カジカガエルの声を愛でる観賞会を計画しています。竹灯籠の灯りでライトアップされた美しい川で無事に行われることを願っています。
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令和2年1月2日(木)、鵜峠・鷺浦両地区で正月の伝統行事「シャギリ舞」が厳かに行われました。
鵜峠は、昼の2時から始まりました。大宮神社で舞った後、宮野屋の前、灘野屋前、最後に仏照寺でシャギリ舞が行われました。舞い方奏者合わせて10数名で、太鼓、笛の音も厳かに、勇ましく舞われました。
このシャギリ舞いは、明治の頃に、杵築地区の大土地(おおどち)神楽を取り入れて当時鵜峠地区で盛んに行われていたものが起源とのこと。神楽の演目の一部を、新年最初に、鵜峠地区の繁栄、家内の安全、無病息災を祈って行われてきた伝統行事です。
一方、鷺浦では、夕方6時半より、伊奈西波岐神社をスタート地点に、各町内の家々を賑やかなシャギリ囃子に合わせて舞いの行進が始まりました。
天狗面1名を先払いに、通称柴面(しばめん)8名が榊(さかき)の小枝を、通称本面(ほんめん)8名が御幣(弊串)を持ち、厄払いしながら練り歩きました。同時に柴面と本面各2名が順次家々に流れ込み、厄払いの舞いを舞い、終わると再び次の家へと進んで行きました。行列が進む間、ドウ、太鼓、笛の囃子方の後方に、長老方の流暢な船謡(ふなうた)がシャギリ囃子に和して流れます。鷺浦地区の小学生3名は、大人8名の本面に加えて、本面となって行列に加わりました。
別動の本面と柴面が「以毛」地区の家々まで行き、行列は鷺の隧道で折り返してスタート地点に戻っていきます。最終の「納めの舞い」が伊奈西波岐神社で行われ、夜の10時頃に今年のシャギリ舞は終わりました。
鷺浦のシャギリ舞は、新年を迎えて、この年が弥栄に栄えて、地区の繁栄、家内の安全無病息災に安泰の一年でありますようにと祈る全国でも珍しい正月行事です。その起源を秋田の「なまはげ」に由来するとする人もおられますが、定かではありません。およそ、二百数十年前以前から行われていたようです。(「鷺浦の伝統行事の保存会活動について」藤井健蔵『大社史話 2019.11 第200号より』より引用)
【写真提供:地域の方】
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コミュニティセンターの事務所にも来てくれて、 「どんなお仕事をしていますか?」 「大変だと思うことは何ですか?」 「仕事をしていてどんな時が嬉しかったですか?」 などと、たくさんの質問を受けました。 |
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平成26年5月6日(火) 大社地域自治協会連合会にて、大社 地域貢献受賞者祝賀会が開催されま した。 鵜鷺地区からは鵜鷺げんきな会さんが 受賞されました。 |
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平成25年8月8日(木)に心游舎キッズキャンプ参加者のみなさんと一緒に、三笠宮彬子女王殿下と出雲大社の宮司様ご夫妻・ご子息様が、ご来館されました。
心游舎キッズキャンプは2泊3日で行われ、行程の一部に鵜鷺での塩づくり体験があり、約40名の方がおみえになり、鵜鷺げんきな会さんをはじめコミュニティセンター職員も、めったにない貴重な経験をさせていただきました。
暑い中での塩炊き&豆腐づくり体験となりましたが、みなさん熱心に作っておられ、出来上がった豆腐も談話をしながら完食してくださいました。
2014年4月1日より 鵜鷺コミュニティセンターの地番が変わりました。
鷺浦1044−1 ⇒ 1045−1 に 変わりましたのでお知らせいたします。
20日が土・日・祝日の場合は前日の平日です。