市内の遺跡・文化財
国史跡
今市大念寺古墳(いまいちだいねんじこふん)出雲市今市町
古墳(こふん)時代後期(約1450年前)に造られた,県内最大(全長約92m)の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。後円部には巨石を積み上げた横穴式石室(よこあなしきせきしつ)があり,その規模は全長約12.8m・高さ3.3mです。石室の中には,大小2基の家形石棺(いえがたせっかん)が置かれています。奥にある石棺は日本最大級の大きさで,重さは推定10tにもなります。
江戸時代に石室が発見された時,多くの副葬品(ふくそうひん)が出土しました。出雲西部に君臨(くんりん)していた権力者の墓と考えられます。出土品を描いた絵図(コピー)が出雲弥生の森博物館にあります。
国史跡
上塩冶築山古墳(かみえんやつきやまこふん)出雲市上塩冶町
墳丘(ふんきゅう)の直径約46m,周りの堀を含めると直径約77mもある出雲最大級の円墳(えんぷん)です。横穴式石室(よこあなしきせきしつ)は全長約14.6m,高さ2.9mあり,ブロック状の切石(きりいし)を組み上げた精美なものです。内部には,大小の家形石棺(いえがたせっかん)2基が置かれています。
県内屈指の質と量を備えた副葬品(ふくそうひん)(冠(かんむり)や武器・馬具(ばぐ)など)が見つかっており,古墳時代後期(約1400年前),今市大念寺古墳(いまいちだいねんじこふん)に続いて造られた権力者の墓と考えられます。
出土品は出雲弥生の森博物館に展示されています。


国史跡
上塩冶地蔵山古墳(かみえんやじぞうやまこふん)出雲市上塩冶町
周囲が削られていますが、現状では15mほどの大きさの古墳です。南東に口を開けた全長9.2mの横穴式石室があります。石室は前後二つの部屋にわかれます。奥の部屋は壁と天井がおのおの一枚の板石で組み上げられており,その中いっぱいに家形石棺(いえがたせっかん)と箱形の石棺が置かれています。
出土品は知られていませんが,約1400年前,上塩冶築山古墳の次に造られた権力者の墓と推定されます。巨大な板石を組み上げる石室の作り方には,出雲東部の古墳の影響がうかがえます。


国史跡
宝塚古墳(たからづかこふん)出雲市下古志町
神戸川左岸の平野部にある古墳です。墳丘が流出したため,横穴式石室の巨大な天井石が露出しています。長さ約3.6mの石室は凝灰岩の切石を積み上げて作られ,中に家形石棺が置かれています。家形石棺は刳り抜き式ですが,南壁だけは別の石材があててあります。石室が開いたのが古いため,出土品はわからなくなっています。石室と石棺の形から約1400年前の古墳と推定されます。


国史跡
猪目洞窟遺跡(いのめどうくついせき)出雲市猪目町
島根半島の北岸,日本海に面した洞窟にある遺跡です。縄文時代(約5000年前)から古墳時代終末期(約1300年前)までの各種の出土品があり,弥生時代後期(約1800年)前から古墳時代終末期にかけては墓地に利用されていました。凝灰岩(ぎょうかいがん)の洞窟であるため人骨の保存状態がたいへん良好です。沖縄諸島でとれるゴホウラ貝を加工した腕輪(うでわ,県指定文化財)を装着した人骨もありました。
ここが『出雲国風土記』に「黄泉の穴(よみのあな)」と記されているのは,墓地であったことの記憶(きおく)によるのでしょう。


国史跡
上島古墳(あげしまこふん)出雲市国富町
旅伏山(たぶしやま)の南斜面に築かれた古墳(約1450年前)です。凝灰岩(ぎょうかいがん)製の家形石棺(いえがたせっかん)が埋めてあり,その横には竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)がありました。石棺からは人骨とともに鏡・玉類や大刀(たち)などが見つかり,石室には弓矢や馬具(ばぐ)が収めてありました。 出雲の多くの家形石棺と違って上島古墳の石棺には横に口が開いていません。この形は近畿地方の特徴であり,古墳の主が強いつながりを持っていたことを推測させます。


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国富中村古墳(くにどみなかむらこふん)出雲市国富町
墳丘の直径約30m,堀を含めると直径約42mの円墳(えんぷん)です。横穴式石室(よこあなしきせきしつ)は,割石(わりいし)を加工した石材で造られ,奥の部屋には家形石棺(いえがたせっかん)が置かれています。石棺は板石を組み上げてあり,その形は安来(やすぎ)市など出雲東部のものとよく似ています。
石室は盗掘(とうくつ)を受けておらず,そこには,鏡(かがみ),飾(かざ)り付きの3本の刀,3組の馬具(ばぐ),数多くの須恵器(すえき)などが残っていました。規模や副葬品(ふくそうひん)からみて,上塩冶築山古墳(かみえんやつきやまこふん)の主と同時代を生きた,出雲平野東北部の有力者がねむる墓と考えられます。
※石室内の見学はできません。
市史跡
矢野遺跡(やのいせき)出雲市矢野町
出雲平野のほぼ中央にある遺跡(いせき)で,その広さは東西350m,南北600mもあります。縄文(じょうもん)時代後期(約3000年前)から江戸(えど)時代(約200年前)までの長期間にわたる集落遺跡です。
弥生時代には,土器,農具などの木器,斧(おの)などの石器,玉製品などの生産を行い,平野の中でも拠点的な大集落だったと推定されています。土笛(つちぶえ)やガラス勾玉(まがたま)のほか,九州や瀬戸内から運び込まれた土器なども出土しています。
国史跡
田儀櫻井家たたら製鉄遺跡(たぎさくらいけたたらせいてついせき)出雲市多伎町奥田儀ほか
田儀櫻井家は,江戸時代の出雲を代表する鉄師(てっし)の一つです。江戸時代初期から明治23年(1890)までの約250年にわたり,松江藩の庇護(ひご)のもとに出雲市多伎(たき)町奥田儀(おくたぎ)を拠点として活躍しました。その中心となる宮本鍛冶山内遺跡(みやもとかじさんないいせき)には,当時の生産と生活に関連する遺跡が残っています。田儀櫻井家は,山間部に点在するたたら跡(聖谷(ひじりだに)たたら跡,朝日(あさひ)たたら跡など)と,海辺に立地するたたら跡(越堂(こえどう)たたら跡など)の地域の特性を生かして鉄生産を行い,口田儀港を利用した海上交易で販路を広げる経営戦略をとっていました。
大鍛冶場跡(宮本鍛冶山内遺跡)
山内従事者住居跡(宮本鍛冶山内遺跡)
国重文
旧大社駅本屋(きゅうたいしゃえきほんや)出雲市大社町山陰本線の出雲今市駅(現出雲市駅)から延びる大社線は1912年に開通しました。その終点で出雲大社参拝の玄関口となる大社駅の駅舎は,1924年に木造二階建て瓦葺(かわらぶき)の豪華(ごうか)な和風建物に改築されました。見た目と違って建物構造には西洋建築の手法が採り入れられています。
1990年,大社線は廃止されましたが,大社駅はプラットフォーム(県指定文化財)とともに残されてかつてのにぎわいを今に伝えています。

