山中鹿介誕生の地は鰐淵

前田にあった五輪塔(常光寺) 
 鰐淵地区内に「前田」と言う地がある。鉱山が操業していた頃は、前田社宅が立ち並んでいた場所である。
 島根県教育会が、昭和2年に編纂した「島根県口碑伝説集」に、鰐淵小学校報として、「簸川郡鰐淵村大字河下、学校所在地より南方一丁の所に、前田と云う地名がある。昔より此地を、山中幸盛誕生地と云ふて居る。」と記されている。
 「島根県口碑伝説集」は、島根県教育会が県内各地域に伝承されている伝説を、各小学校に調査・報告させたものを纏めたものである。
 現在鰐淵地区では、この伝承は忘れられているが、昭和初年までは、山中鹿介が河下の前田で誕生したと言う伝承が、鰐淵地区内できちっと伝えられていたことがわかる。
 また、天正8年(1580)頃に、河本大八隆政によって著された「雲陽軍実記」の第1巻には、尼子経久が富田城を奪還の相談のため「山中の一族18人の内、鰐淵寺の麓に蟄居しける山中堪兵衛勝重を呼び寄せ云々」との記載がある。
そして、同書第5巻には、「鰐淵寺の麓は鹿之助出生の地にて、即ち山中屋敷とてありける処なれば云々」とある。
 第1巻の記事は、文明18年(1486)のことであり、鹿介誕生は、天文14年(1545)だと言われている。鹿介が没し尼子氏が滅亡したのが天正6(1578)である。
 この記載から、1480年から早くても1550年頃までは、鰐淵寺山麓に山中屋敷があり、山中と名乗る豪族が居住していたことがわかる。
 鰐淵の伝承と、「雲陽軍実記」の記載から考えて、鰐淵寺山麓の山中屋敷は、河下町の前田にあったものと思われる。
 前田は、鉱山の社宅が建設されるまでは棚田が開かれており、山麓には五輪塔もあり、豪族屋敷があったことは充分に推測できる。
 付近には、野倉・堂ノ原・夜立・門栗毛という歴史を匂わせるような小字もある。
 五輪塔は3基あり、鉱山閉山の砌に河下町の曹洞宗瑞雲山常光寺墓地に移転されている。
 現在河下町の姓は、原、高橋、大坪、錦織、荒木、長廻等で山中姓はない。地域に残る古文書によると永正10年(1513)には、原・大坪・上田・長谷の姓が記されているが山中姓はこの記録にはない。
 また、地区内の瑞雲山常光寺の寺紋は、尼子氏と同じ「隅立て四つ目結」である。;
 地区内の古刹天台宗一乗院浮浪山鰐淵寺は、尼子・毛利の合戦には毛利氏に味方し、毛利氏勝利に大きく貢献している。したがって、毛利氏勝利の暁には、前田に山中屋敷があったとしても、尼子方である山中氏はこの地を追われるか、残ることが可能であったとしても姓を変えて居住することしたできなかったのではなかろうか。
 鰐淵地区が、山中鹿介誕生の地であるという伝承と僅かな記録のみであるが、地域にとって大きな財産である。この伝承を語り繋いで行くことが我々に課せられた責務である。