井上恵助翁は、私財も投じ過酷な大自然と戦い、ついに不毛の大砂丘115haへ90万本の松苗植栽に成功しました。松江藩でもできなかった砂防の大事業を、試植から22年目の安永7年(1778)に成し遂げました。また、この地は出雲国風土記には「とぶひ※」がおかれた説があり、国土地理院の「三角点」があります。
※とぶひ:のろしをあげる場所
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朝山八幡宮が現在地に移遷される以前はこの地にあって、地名元宮として残っています。 神社の創建は明らかではありませんが、現在はこの地に碑が設置されています。この付近は白枝本郷の遺跡でもあります。
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松江藩財政を立て直すため、年貢取り立てが厳しくなった享保17年(1732)秋、いなごの大発生により、飢饉と重税の危機にさらされた農民を救うため、荒木村の源左衛門と共に松江藩に直訴し、自らの命を犠牲にして多くの民を救いました。
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戦没者の霊を慰霊・顕彰するために建立された石碑。
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大梶七兵衛翁は、元和7年(1621)に現出雲市古志町に生まれ、公益のために一身を捧げ、高瀬川と十間川を切り開き、植林をして荒木浜の開拓をするなど、元禄2年(1689)69歳で没するまで後世のために多くの功績を残しました。
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大正8年(1919)からの20年間、村長及び県会議員として村政と県政の発展に精魂を傾けた人物。特に干ばつによる飢饉を憂慮し、昭和3年(1928)神戸川に堰堤を築造。河南部3ヶ村、河北部4ヶ村の農家の水騒動を一掃し、後世に美田を残したことで知られています。その業績を讃え、昭和26年10月5日にこの碑が建てられました。 |

摩齋翁は文政12年(1829)下横村の神職金本家に生まれました。幕末の頃、攝州伊丹明倫堂の教頭に抜擢され、明治元年(1868)までの11年間、その職を務めました。
真澄翁は天保4年(1833)に生まれ、兄と共に神童と呼ばれました。神門郷校の教師にはじまり、師範学浜村支校、神門中学校教諭を経て家塾を開き、優れた人材の育成に努めました。
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浜地区の開拓に携わった郷土の偉人。 江戸時代初期に、浜・遙堪・高浜にあった菱根池と呼ばれた一帯の悪水を抜くため、大社湾に注ぐ堀川を開削し、新田開拓を行ないました。
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高松自治協会創設者であり、高松公民館長も務めた人物。そのほか、浜地区治水事業をはじめ、高松土地改良事業、農業改善事業等に積極的に取り組むなど、産業・自治社会教育等各種の面で功績を挙げました。
地元の浜町砂子田にその頌徳碑が建てられています。
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神社の所在地は、天神、渡橋、小山、矢野、丸太、石津、北芦田、南芦田等の地割の基点で、これが八通りに放射状にのびていることが社名の由来といわれています。 この社付近は、出雲国風土記(733)に記された神門水海のなぎさの近くで、弥生時代中期頃から古墳時代始め頃にかけての遺跡といえます。
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【松風さわやか元気な高松】 【事故ゼロのお国自慢は高松から】 【高松の七恵の里は人権の町】 国道9号出雲バイパス開通記念として白枝西交差点近くに看板がたてられました。
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国土交通省の斐伊川放水路整備計画による神戸川治水工事に伴い、旧神戸堰の下流部約50メートルに設けられた神戸堰と高松樋門・神戸堰橋が、平成21年3月に完成しました。
この神戸堰によって両岸の住民は555ヘクタールの耕作を可能にして豊かな生活を享受しています。 |

失われつつある出雲地方の伝統を現代に伝え、訪れる人々が出雲の歴史と文化に触れることができる憩いの場として、平成3年に開館しました。 出雲地方特有の築地松に囲まれた敷地には、出雲平野の大地主であった江角家の母屋と長屋門、庭園が移築されています。
隣接地には「浜山湧水群」、創作活動のできる「出雲文化工房」、多目的施設「縁結び交流館」もあります。 |

平成20年6月に「平成の名水百選」に選定されたのを機に整備されました。
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