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皆さんは、夏の夜、斐伊川の上津土手を車で走行された時、山の上に
何か城の形をした明かりを目にされたことはありませんか。ここが、「上之郷城跡」です。
  上之郷城址・不夜城イルミネーション  1 そこで、上島上ゲ町内の「上之郷城と不夜城(イルミネーション)」を紹介します。 
 城跡は、上郷神社の南方に続く馬蹄形の尾根上に郭10,堀切3、土塁2、井戸1などの跡が残っている。眺望がよく、眼下に斐伊川が手に取るように見える。
  明徳年間(1390〜1394)ころから元亀年間(1570〜1573)ころまで、塩冶氏系の城主がいたと思われるが、塩冶氏と本城との関係はわからない。その後、尼子氏、毛利氏の配下となり、毛利36城の一つになったといわれる。
  現在、城跡は公園として整備され、夏の城山に点灯する"不夜城"は、県道出雲三刀屋線からもよく見えて、ドライバーの目を楽しませている。
 
 (パンフレット「上津見てあるきー斐伊川が育てたロマンー」から) 
   とだわの古戦場跡  


      2 次に、和久輪町内に残る「とだわの古戦場跡」です。

 尼子軍と毛利軍が戦った場所と言われ、このことを裏づけるような刀剣、武具などが、土中からたくさん発掘されたことがある。
  また、上之郷城の武士たちが毛利軍との激戦の末、自決して果てた場ともいわれている。このあたりの山中には、無名戦士の墓誌である五輪塔が、数多くみられたという


                  (パンフレット「上津見てあるきー斐伊川が育てたロマンー」から)

  
 
   釜石長者の釜の炊き口  
     
3 和久輪町内の釜石長者の釜の炊き口」です。

 その昔、釜石谷の長者原地域に「釜石長者」が住んでおり、大きな勢力を保っていたという。この長者原の水田の中には、3個の石組みがあり、これは「釜石長者の釜の炊き口」といわれているが、最近では、「古墳の入口の石」であるという見方がある。
 また、付近には釜石長者の墓ではないかといわれるものが残っている


                   (パンフレット「上津見てあるきー斐伊川が育てたロマンー」から)








 
  西谷の編入記念碑  

     4 西谷町内の「編入記念碑」です。

 西谷町は、江戸時代には法師田村(現雲南市三刀屋町高窪)にあったが、明治8年(1875)には屋内村と合併した高窪村に属し、明治22年(1889)には町村制の施行にともない誕生した一宮村の大字高窪字西谷となった。
 しかし、西谷は古来上津村との交流関係が深く、地元民の要望が高まり困難を乗り越え、昭和16年(1941)11月3日に、飯石郡一宮村から、簸川郡上津村大字西谷として上津村へ編入するにいたった。これを記念して石碑が建立された


               (パンフレット「上津見てあるきー斐伊川が育てたロマンー」から)

 
 
   下郡屋敷の跡  

        
5 奥井谷上町内の「下郡屋敷の跡」です。

  江戸時代、農民側の役人である下郡は郡の吏長で郡行政の一切をつかさどり、与頭はその補助者として庶務を分掌していた。金山谷右衛門は郡内で人望があり、算筆能力のある豪農として天保7年(1836)から明治4年(1871)ごろまで下郡、与頭、大庄屋、戸長などを歴任、嘉永4年(1851)から下郡を務めた。その屋敷は900坪を占め、豪壮極まるものであったという。

               (パンフレット「上津見てあるきー斐伊川が育てたロマンー」から)
 
 
 
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