鳶ヶ巣城址 (出雲市指定史跡)


                                    

 鳶ヶ巣山 

 

宍道政慶氏の石碑


 鳶ヶ巣城址は、出雲市内最大規模を持つ中世山砦城遺構である。
 永正年間(1,510年代頃)宍道久慶が築いたと思われるが、
 永禄4年(1,561年)毛利元就が築城したといい、
     又天正10年(1,582年)宍道政慶が築城したとあるから、      数度の改築がおこなわれたものと考えらます。

  標高285メートルの山頂にあり、主郭部は30×15メートル、
 四方の尾根には10の郭があり、5ケ所に土塁が残っています。                                                    

 頂上南1郭に建てられた案内板

 

 我が国の戦国時代に中国地方の利権を獲得しようとする

 戦いの中で、鳶ヶ巣城は大きな役割を果たしていました。

 1,542年(天文11年)、大内氏、毛利氏の連合軍は

 拠点としていた富田城(現広瀬町)に進攻しました。

 しかし2年間にわたる戦いの末、大内氏、毛利氏の

 連合軍は尼子氏に敗退しました。この時連合軍の中に

 あった鳶が巣城も落城し、城主の宍道隆慶は一族と共に長州

 (山口県)に逃れました。それから20年後、

 

鳶ヶ巣城主郭付近測量図

 1,561年(永緑4年)、大きな勢力となった毛利元就は、

 再び尼子氏攻めに出撃しました。

 武将として、出雲に進攻した宍道隆慶、政慶父子を城主とし

 尼子氏攻略の翌年、毛利氏は鳶が巣城を乗っ取り、4年間に

 及ぶ戦いの末、尼子氏拠点の富田城は落城しました。

 こうして 出雲の国は完全に毛利氏が制する所となりました。

 宍道氏は、この戦いの功績から出雲北山一帯の武将を支配する

 地位に任命され、その後40年近く、城下及び領地の経営に

 力を尽くしたが、1,600年(慶長5年)関が原の戦いが起こり、

 西軍 豊臣方に属した毛利氏は敗れ、その配下であった宍道氏も

 毛利氏に随行して、萩市(山口県)に移り、鳶ヶ巣城は廃城となり  ました。      

 

                            

 

登山道 

  
 鳶ヶ巣城址への山道は、誰でも登山されやすいよう整備されています、
 また、山頂への水道が完備されました。

鳶ヶ巣城址への登山入り口付近

国道431号線沿いの西林木町東組町内に、駐車場が作られて(約30台)います。

           お気軽に利用してください。

       

 

                      


 

 

 

1)山城の築城

   室町時代の初期(1380年頃)出雲国守護職は、佐々木高氏の孫佐々木秀益が

    意宇郡宍道郷を支配していた。

   文明18年(1486年)尼子経久(つねひさ)は出雲国守護代として富田城を

    制し戦国武将として頭角を現した。

   その頃尼子氏と同じ佐々木、京極氏の流れである宍道氏の5代宍道慶勝(よしかつ)は 宍道郷を領して、金山要害山に居城して尼子経久の軍に属して活躍していた。

   慶勝の子宍道久慶(ひさよし)は尼子敬久の諸代の臣として尼子の近国征服の戦いに参戦、 手柄をたて、径久の娘と結婚して次第に領地も加増されて拡大していった。

  (宍道一郷に遥堪郡、高浜、林木、美談、宇賀 等北山手を加増された) 

    そこで その所領の全域を支配する最も良い場所に本拠を移す必要を感じた。

   当時は今の斐川町の東半、平田市の東部等はまだ湖であり、その周辺部も

    沼地や原野で、旧領の宍道から北山手各郡に到るには直江、井上、鳥谷を北上

    して林木、美談方面に斐伊川東岸線を通行したと思われる。

   林木の鳶ケ巣山は北山の山脈から南に突出しており、神門、遥堪、出雲の各郡の

    大部分を見渡せる天然の要害であり、宍道の要害からも烽火(のろし)などで通信

    できる理想の砦であることから、この地を宍道氏の本拠とした。

   宍道久慶(ひさよし)が鳶ヶ巣城に移ったのは永  正12・3年の頃(15156)である。

 

 

               

2)戦国時代

 

   一般に戦国時代といえば、応仁の乱(おうにん)の   終結(1477年)から始まって 織田信長が足利義昭を伴って上洛を果たした時点(1568年)までと考える。

  つまり「室町時代」と「安土桃山時代」 にまた  がって存在する時代ゾーンのことだ。

   しかし その時代では合戦はまだ絶えておらず  その後にも多くの合戦や悲喜のこもった      人間模様が多く見られた。  

   従って 大阪夏の陣終結(1615年)までを    「戦国時代」と考えた方がよいと思う。

   その頃の戦争の、大きな理由は土地の不足が考  えられる。              

   鎌倉時代からの「御恩」と「奉公」による主従関係では家来は主君のために功を挙げる

   「奉公」の結果で土地をもらって「御恩」家来や一族を養っていた。

                                               国土の狭い日本では、この時代における「御恩」と「奉公」の主従関係の維持はもう                            

     飽和状態になっていた。なにかと理由をつけて他の領地を侵略し戦争をしていた。

                      

     戦国時代・・それは自分の力しか信じられな  い特異な時代、時には親兄弟妻子で

  あろうとも敵味方に別れて争った

3)敗戦

 

  尼子径久が老齢・孫の若き尼子晴久が頭領になったが、安芸、石見、をはじめ各地の武将が反旗をひるがえして大内、毛利などの配下と

  なっていった。

  その頃、毛利元就も尼子をはなれ、大内氏と同盟  を組んだ。

  鳶が巣城築城した宍道久慶氏の孫・宍道隆慶(たかよし)は、尼子径久の三男・興久とは幼馴染で同胞 隆慶の母上が尼子径久の姪である)

  尼子興久は塩治城主である

  尼子径久と領地の事で反乱をおこした尼子興久に従った隆慶は、尼子径久に敵対する事となった。

  宍道隆慶は大内氏の軍に参加して尼子攻めの采配を振ったが、結果は尼子に敗れ鳶が巣城落城した。

  鳶ヶ巣城は大内軍の湖北作戦の基地として重要な役割を担っていたとおもわれるが天文12年(1543年)、富田城が尼子有利の情報が伝わると、

  湖北方面の尼子方が鳶ヶ巣城を包囲して兵糧攻めとされ、和議が成立して開城することとなった。

  宍道隆慶は長州(山口県)に逃れて鳶が巣城は主の無い砦となった。

  鳶ヶ巣城落城後は資料がないためにわからないが 尼子晴久の手によって適当な武将が在番したと思われる。

4)鳶ヶ巣城復活

 

  天文21年(1552年)安芸の国の毛利元就は防長、芸備の所領を手中にして活躍していた。 

  長州に落ちた宍道隆慶は大内氏に士官していたが、大内氏滅亡とともに毛利元就に従い芸備、石州方面に転職していた。

  永禄3年(1560年)尼子晴久が死後毛利は時節到来と山陰の尼子攻めを積極的におこなう事となり、隆慶はその武将として旧領の地に進行した。

  翌年夏・毛利元就は鳶ヶ巣城を乗っ取り尼子攻略の拠点とした。

  毛利に従軍した宍道隆慶は178年ぶりに返り咲くことが出来たのである。

 

  元鳶ヶ巣城3代目城主で、尼子氏に反抗して敗北、長州に落ち・大内氏から毛利に移り、遂に旧領に勝利者として返り咲くという数奇の運命をたどった戦国武将宍道隆慶は天正12年6月3日大往生と遂げ、霊雲寺に葬られている。

  隆慶の子政慶(まさよし)は父や祖父の後を継ぎ鳶ヶ巣城4代目の城主となり、毛利氏一族に最も信頼される武将として善政を敷いた。

  そして約40年間 宍道政慶は領地を整備し安定した政治をおこなって地元に貢献している。

 

 

5)鳶ヶ巣城廃城

 

慶長5年(1600年)関が原の戦いで西軍についた毛利氏に従軍したが敗北、毛利領防長2国となり、宍道氏は長州・萩に移住。掘尾吉晴が

出雲領主となり、富田城に入城し。鳶ヶ巣城は廃城となった。