青木遺跡の概要

      青木遺跡は北山から流れ出る川(湯屋谷川)により形成された扇状地の南側縁辺部に位置して

      います。平成13年度から国道431号道路改築事業(東林木バイパス)に伴い発掘調査を行って

      います。今年度(平成14年)は中世の建築跡や古代の礎石建物を確認しましたが、新たに

      銅鐸片が人骨とともに墓壙から出土し、また弥生時代の墓である四隅突出型墳丘墓も

      確認しました。平成15年10月14日発表によりますと、奈良時代から平安時代前半(8世紀〜10世紀)

      の木造の木彫りの神像が出土しました。 

               平成16年1月18日の現地説明会によりますと、調査終了間際に、新たに古い形式の四隅突出型墳丘墓

      1基がみつかりました。

 

 

 

 

 

   平成16年2月11日 鳶巣コミュニティセンターの大ホールにおいて 現在鳶巣地区で行われている、発掘調査の調査

   報告会がありました。

   青木遺跡については、調査による記録が終わると大半は道路建設工事によって壊れてしまいますが、特に貴重な遺構

   がみつかった 5,600m2 については保護層で被覆し、貴重な遺構が壊れないような工事が検討されるそうです。

   今回の報告会は、鳶巣地区の皆さんへの状況報告が主だったのですが、学術的な説明を含め、分りやすく説明して

   いただきました。

   特に 調査が進むにつれ、私たちが住む鳶巣地区に、弥生時代から奈良時代にかけ、かなり充実した集落・そして

   役所のような神社が立ち並んでいたらしい事がわかり、祖先の残した遺構の上で生活している私たちに ロマンと

   夢を与えてくれました。

   

 

鳶巣地区そして地区外の古代史ファン

およそ100名の参加者で、説明会が行われ

ました。

また 出土品類の展示もおこなわれ、みなさん

感激されていました。

 

  

 

 

 

 

 

       第五回目

                        平成16年1月18日(日曜日) くもり

            

          弥生時代中期後半の四隅突出型墳丘墓一基がみつかりました

調査区(1区)の東側で、南北方向の一辺のみ検出しました。(突出部は北西隅と南西隅の2箇所をかくにんしています。

大きさは長さ約17メートル、高さ約1メートルの墳丘斜面には、20〜50センチメートル程度のやや篇平な自然石を貼り付け

(貼石)ています。

時期については墳丘周辺から出土した土器より、弥生時代中期後半(紀元前1世紀頃)と推定されるそうです。

 

  

 南北の西側の一辺・長さ約17m高さ約1m

弥生時代中期後半の同墳丘墓は、中国山間部にある広島県三次市の陣山遺跡など、三次盆地で計8基しか出土していません。      

広島県から山陰にかけて広い文化圏が形成されていた可能性があるものと考えられます。

  

 

南西角の稜洗浄には約20〜40センチの丸みを帯びた石が一列に並べられています。

青木遺跡ではこの外に3基の四隅突出型墳丘墓やその他の墳丘墓も4基以上確認されています。

曇り空の説明会には約300人の歴史に関心のある方が集まって熱心に耳をかたむけておられました。

 

 

 

       県埋蔵文化財調査センター発表  

 


  平成15年11月18日・島根県埋蔵文化財調査センターの発表によると、奈良時代後半(8〜9世紀)
   の「賣田券」(ばいでんけん)と書いた木簡が出土した。

 

                      

 

          長さ35.2センチ、幅4.1センチ、厚さ0.4センチ。
          表に「賣田券」と墨で書き、「吉備部忍手」という人物が、借りたもみと利息分の6束(約22リットル)の
          米を納められず、田1段(約10アール)を「佐位宮」に進上したとの内容だそうである。
          (当時、懇田永年私財法で開墾が奨励され、水田も売買の対象になった。激しい取立てで、いったん所有
           した土地を手放す持ち主がいたことがうかがえるという)  
 

 

                           第四回目

  平成15年10月19日(日曜日) 快晴

           神像出土・・・役所内に神社建設か?「大社造り」に似た柱跡が出土しました。

 

   奈良時代から平安時代前半(8世紀後半〜10世紀)の土層から、高さ13.5センチの木彫り神像1点が出土しました。

   神像とは仏像彫刻にならって神の姿を木造にした物です。本来は社寺の建物内に大切に安置され、信仰の対象であった

   ものだそうです。神像が遺跡から出土する自体が極めて珍しく考古学的に年代を決定できた例は他に無いそうです。

   今回出土した神像は、神像彫刻の中で最古級で、文献資料からうかがえる神像彫刻の開始期にあたるそうです。

    また 神像の出土した遺跡の東側で、出雲大社の「大社造り」に似た「田」の字形に柱を配した掘っ立て柱建物跡が確認

   されました。これが社殿だった可能性があります。

 

   

  高さ13.5センチ、小型の男神座像(座った状態の像)。一本造り、無彩色、冠をかぶり、手には笏をもつ、

  墨描きであごひげと、装束(衣服)のひだが表現されています。

  有力貴族である位の高い官人の正装姿をとる。目を大きく見開き眉をひそめ、口をきつく結んだけわしく

  荒々しい神の表情が表現されています。

                          現地説明会状況                               新たに四隅突出型墳丘墓出土   出雲大社の「大社造り」に似た「田」の

                                                                                                字形に柱を配した掘っ立て柱建物跡が確認

     果実(もも・すもも・なし)を満たした      祭祀遺物の土馬出土       墨書土器・(伊:伊努・美:美談)出土

    土師器甕5個出土

 

 

  

      平成15年6月12日発表

 

 

   また 島根県埋蔵文化財調査センターが6月12日に発表したところによると 飛鳥-平安時代の

 絵馬が出土しました。

 絵馬は 縦10.1センチ 横12.5センチ 厚さ0.6〜0.7センチ 2枚に割れて左側が少し欠けていますが

 上部にひもを通す穴が開いていました。

 馬は墨のみで描かれ、左を向いて右前足をあげています。またくつわやあぶみ、手綱などの馬具も

 表現されています。

 近くで出土した土器などから推定して 8〜9世紀始めのものと思われます。

  同センターの話では、近くに役所のような建物があって、絵馬はそこで祭事の際に使われていたものと

 考えられるそうです。

青木遺跡から出土した絵馬 

島根県埋蔵文化センターが描いた絵馬

             

 

    

  第三回目

   平成15年3月2日(日曜日) 快晴

        

    銅鐸片が墓壙内から出土したのは全国ではじめてのことだそうです。

    弥生時代後期の人骨は全国的に見ても少なく、人類学的にも価値が高いものだそうです。

    四隅突出型墳丘墓は全国で100例が確認されており、今回の検出例は出雲部で34例目

    出雲地方の低地では出雲市中野美保遺跡に続き2例目になるそうです。

        

墓穴から出土した遺物が銅鐸片一点だけだった事から、「副葬品」や「被葬者の装飾品」

    とも考えられるようです。

 

   四隅突出型墳丘墓の突出部

        

          

              

  青木遺跡発掘状況  銅鐸片  出土 (平成15年1月31日発表)

 今回発掘された遺物は、弥生時代後期(一〜ニ世紀)の「飾り耳」と呼ばれる銅鐸片(幅6.5センチ 

 高さ3.55センチ厚さ0.3〜0.4センチ)が出土しました。(1月17日出土)

 銅鐸の吊り手の外縁側に付く「飾り耳」の一部で、二つの渦巻き文様、が見られます。

 (ニ頭渦文飾り耳)部分の破片です。

 その特徴から飾り耳は、近畿地方で装飾的な「見る銅鐸」の特徴で、出雲地方での出土は始めて

 との事です。

 渦巻状の文様が二つあり、「銅鐸の上部」についていた物で、銅鐸の大きさは60〜70センチと推定

 されます。

          

 

     出雲地方ではこれまで、加茂岩倉遺跡などで、52個の銅鐸が出土していますが、いずれも

  弥生前期〜中期(紀元前3〜0)の小型で音を鳴らすための「聞く銅鐸」の形式です。

           

 

 紀元前3〜2    前2〜1     前1〜1前     1〜3世紀   1〜3世紀

 

  a・・最古段階   b・・古段階    c・・中段階   d・・新段階   e・・新段階

 兵庫県州本市  鳥取県東伯郡  神戸市東灘区 愛知県宝飯郡 滋賀県野州郡

                                 三遠式     近畿式

 高さ 24.2センチ    42.7センチ     47.9センチ    74.3センチ      134.7センチ

                                飾り耳あり    飾り耳あり

 

一口メモ

   銅鐸の進化

    弥生時代の銅鐸は、小さいものから大きなものへと変化する。初めは、銅鐸の内側に棒を吊し

    鳴らしたものと考えられ、いわゆる「聞く銅鐸」だった。しかし、大きくなるに従って、盛んに文様

    で飾られ、人々が見て仰ぐ「見る銅鐸」に移り変わったといわれている。 

 

    銅鐸の作り方

       銅鐸は石や土で鋳型を作り、それに銅、スズ、鉛の合金を溶かしたものを

       流し込んで造ります。

       鋳型の出土は近畿に多いですが、近年では九州でも見つかっています。

       原料は、鉛同位対比から、朝鮮半島、中国から輸入されたとする説が

       ありますが、一方 日本の自然銅を使ったという説もあります。

 

これは小さい銅鐸片ですが、出雲の弥生青銅器や弥生社会の解明、日本列島の弥生時代にとって

これからおおきな役目を果たす貴重な資料となると見られています。

破片が出土した意味の解明はこれからだそうです。

 

    

                                                  第二回

                            平成14年11月23日(土曜日) 快晴

    

    国道431号バイパス工事に伴い、発掘作業が行われていますが、昨年の調査では、

   弥生時代から江戸時代の遺構、遺物を確認されましたが、今回の説明会では、

   平成13年度の発掘より、さらに約1.5m掘り下げ発掘作業を続けた結果

   古代(奈良〜平安時代)の建物跡とこれに伴う遺物が多数 検出されたとの事です。

             

                    

 

  現在までに確認された遺構は2x3間(4.5x7.3m)の総柱礎石建物跡1棟、掘立柱建物跡または

  柵列跡と思われる柱穴(一部柱残存)が多数みつかりました。

                      

 

   遺物は100点以上の墨書土器(墨で字が書いてある土器)や木簡、円面硯1点、帯金具1点の外、

 多数の土師器 須恵器、木製品が出土しています。

             

        

  

 

墨書土器では、「伊」、「伊努?」、「家永」、「門」、

 「廣」、「来」、「糸」、「伊太」、「和世」、「新寺?」

 などがあり、地名・人名・施設名などをあらわして

 いるものと推定されるそうです。

 この遺跡調査地は、奈良時代編纂の「出雲国

 風土記」の出雲郡伊努郷にあたり、墨書土器の

 「伊」、「伊努?」はこれを意味する可能性が

 あると考えられます。一遺跡で100点を超える

 墨書土器は県内では出雲国府跡のみで、この

 遺跡が役所跡やそれに関連する施設の一部
 とも考えられるようです。

 

出雲国風土記編纂時代の郡、郷の区画地図   

ちょっと一口メモ

 

  出雲国風土記の編者は、奈良時代の天平五年

 (733)年・ 出雲国造出雲臣広嶋氏で、各郡の役人

 である軍司が作成  署名して、最終的に広嶋が

 署名しています。

 

平成13年度の発掘での調査報告は下記の通り。

 

平成13年度の調査では、中世(鎌倉〜室町時代)の

村の跡や弥生時代〜江戸時代までの土器、木製品

などたくさんの遺物が見つかっています。

建物跡は、北から南に向かって、大きく二つの区域に

分けられ東側は中世前半、西側は中世後半の村の跡

と考えられるとのことです。

調査区内では、川の跡もたくさん見つかっているので、

おそらく左写真の上部、北山山地からの大洪水の発生

で、湯屋谷川から流れた土砂で埋まり、その後中世後半

に建物がつくられたと考えられるようです

 

 


     

 

       とびす ふるさとの歴史より