垂水四郎について

垂水四郎の墓
垂水四郎とは、播州、白播城主 赤松彦次郎教康(あかまつひこじろうのりやす)の嫡男で赤松四郎祐信(あかまつしろうすけのぶ)が、康正元年(1455)夏五月、将軍 足利義政のために父祖滅亡の後、播州を出奔して諸国を漂泊した後、寛正年中(1460)に川下村の垂水谷に蟄居し、世間の人は垂水四郎と称した。
 将軍足利義教を殺害した嘉吉の乱(1441)の首謀者赤松満祐は、垂水四郎の祖父にあたる。
 垂水四郎は、川下村の原氏の娘某女を妻とした。妻の実家である原家は現在も河下町に実在する。
 垂水四郎と妻の間には、信勝と称す男子が1人あったが、垂水四郎は、文明13辛丑年(1481)に河下で没した。
 垂水四郎は、現在の垂水神社裏の築山を造り植林を行って、河下の土地を塩害から守り耕作可能な耕地とした。また、当時の中央の知識人として各方面に精通しており、地域の人々に大きな貢献をした。
 垂水四郎が没した後、村人は、垂水明神として祀った。
 垂水四郎の墓は、「垂水権現」として原氏宅裏山にあり、垂水神社宮司および役員によって維持・祭祀が行われている。古文書によると、「当地の豪族、垂水氏の墳墓にして、河東の平屋敷に在りしが、明和年中(1771)、松江奉公福井宇左衛門、河西の当地に移転し、神託により地蔵尊を勧請し云々」とある。
 従って、垂水四郎の墓は、当初「平屋敷」にあったが、何かの事情により、松江奉公の福井宇佐衛門によって現在地に移転した。移転時に神託によって地蔵尊を勧請しているが、現実に、垂水権現の墓石には次のように彫ってある。
 (右側面) 常光寺 信謙嶺章和尚書
        維持   明和辛卯七月大吉祥日(明和8年・1771)
 (中 央) 奉勧請 地蔵大権現
 (左側面)   俗名 赤山垂水四郎 墓
現在、垂水神社には、瀧津姫命と垂水四郎が祭神として祀られている。

垂水四郎の伝説
河下に住み着いた垂水四郎は怪力の持ち主として世間に聞こえていた。
当時、隠岐の島に難波九郎(なんばくろう)という強力者がいた。
垂水四郎は75人力、難波九郎は1000人力であった。
あるとき、垂水四郎と力比べをしようと隠岐の難波九郎が河下にやってきた。
垂水四郎は、「お互いに1週間断食をしたうえで勝負をしよう。」と言って難波九郎を帰した。垂水四郎は断食などせずに腹いっぱい食べて力を蓄えた。
難波九郎は約束どおり断食をして再度河下にやって来た。
垂水四郎と難波九郎は、垂水神社の裏で相撲をとった。75人力の垂水四郎が1000人力の難波九郎に勝った。垂水四郎はうれしさのあまり「空腹では1000人力も75人力にはかなうまい。」と言ってしまった。難波九郎は垂水四郎が約束どおり断食をしていなかったことを知り殺意をいだいた。
正月の朝、垂水四郎は栗毛の馬に乗って鰐淵寺へ年始の挨拶に向かった。
難波九郎は、夜立(よだち・・・地名で堂の原の上)から下の道路を通る垂水四郎に向かって弓を射た。最初の矢と2本目の矢は垂水四郎がつかんだが、3本目の矢が胸に当たり亡くなり、垂水四郎の死体は鰐淵寺川に落ちた。
難波九郎が「垂水四郎と言えども川の流れに逆らい上流に昇ることはできまい。」と言うと、垂水四郎の死体は流れに逆らって鰐淵寺の仁王門の横まで昇った。夜立という地名は、難波九郎が垂水四郎を早朝討つために夜から発って待っていたということから名づけられたということである。